「整体操法読本 巻一」を読む その2
“ 手で体を整へる技術は整体操法のみではありません。昔から今迄に沢山あつたのであります。今の医学が行はれる以前から、漢方の医術が伝はる以前から、少名彦命の渡来するその以前から、行はれていたのであります。
恐らく人間が始めて立上つたその頃から行はれていたのでありませうが、之も頭の医術とともに、時代とともに、病気を対象にして考へて行はれるやうになつて来たのであります。 近頃は解剖生理の側からその方法が吟味研究されて組織され、だんだん頭の医術になりだしておるのであります。
米国のカイロープラクティック、オステオパシー等を始め、我が国に於きましても、何々式を名乗る指圧療法整体療法の数だけでも両手に余る程でありまして、手技療術のすべての種類を数へると百はいうに越します。
之等を頭の医術から本能の医術に、病気を治すことから体を整へることに切り替えることは容易な事ではありませんが、元来手技療術といふものは手で体を整へる本能の働きから出発したのであり、未だその野生を失はず、頭のものになりきり得ないでおるので、之らに呼びかけて新しい方向へ誘つたのであります。
之に応へた人々に依つて整体操法が出来上つたのでありますが、整体操法は手技療術にのみ呼びかけおるのではありません。あらゆる頭の医術にむかつて、本能の裡にあるはたらきに基いて行へと呼びかけておるのであります。 ”
(整体操法読本 巻一 整体操法協会刊)
整体操法読本、第一章第一項、「本能の医術」 に続いて、「治療行為の歴史」、「人間の復興」、「手技療術の沿革」、「日本における手技療術の沿革」 など、整体操法成立に至る経緯をとくために手技療術の歴史にふれているのだが、当時の療術界の様子やそれに対する野口氏の認識、関心の所在がわかっておもしろい。
概ね以下のように述べている。
手を用いて体を整え、病気を治すという行為は、ギリシャなら紀元前300~400年頃のヒポクラテスの時代にはマッサージの効用が説かれ、日本では少彦名命、中国では黄帝の神話時代から行われていたということになっているが、実際はもちろんそれ以前から本能的な行為として誰もが自然に行っていたことは想像に難くない。
奈良時代、大宝律令に続いて施行された養老令に、医師、鍼博士、鍼生と並んで、按摩博士・按摩師・按摩生とあるというから、日本でもかなり昔から一定の技術体系を持った手技療法が存在したことは間違いないだろう。
江戸期に入ると、徳川幕府の盲人救済政策によって、按摩の技術は廃れてしまったとされている。中には、按摩・鍼灸を学び産科に按腹を用いたとされる賀川子玄のように、当時の世界最高水準の産科術を作り上げているような人物もおり、また、吉田流あん摩術の吉田久庵、管鍼法を創始したことで有名な杉山和一安堵の尽力もあったが、全体としての按摩術の技術水準は低下の一途をたどる。
更に明治に入っての医師法制定以降、按摩はそのほとんどが慰安的な技術となってしまい、治療術としての面目は失われてしまっていた。
しかし、そんな中でも按摩術の本質を見失わずに本来の姿を取り戻そうという人々もいたようだが、すでに療術の新しい流れは按摩の中にはなく、その後に興ってくる活法・叩打術から発展した手技療法に取って代わられてしまうようだ。
“ その手技療術としての価値を危ぶまれる導引、按摩術に喝を入れて新生命を與へ、手技療術として更生せしめようと努力した人は少ない数ではありません。
そのうちでも石原氏の乾浴術、鈴木氏の撫鎮術などは傑出してものでありました。島本氏の圧迫療法も之に解剖学的基礎を明らかにして根拠を與へ、大和田氏の掌動術、高野氏の仙掌術も之最良の使ひ方を開拓したのでありまして、之らの人の努力は按摩術を近代的に展開させ手技療術として再起させましたが、武道の活法、即ちプラーマ族の叩打術を出発点として新しき手技療術の勃興に依って新しい動きとしての存在を失ひました。
川合氏の押圧微動術、藤田氏の圧動術などは叩打術から出発したチヤンピオン的存在でありました ”
ここで登場する押圧微動術の川合氏とは、肥田式強健術の肥田春充のことであろう。川合春充は、後に肥田家の婿養子に入り肥田姓になる。
なお、文中に押圧微動術とあるのは、正確には強圧微動術である。
武道の活法が、即ちプラーマ族の叩打術というのはよく分からないが、強圧微動術は古武術の急所活法を下敷きに成立したものらしい。
“ この頃から催眠術のアニマルマグネチズム、又波羅門のプラーナ説から発した霊気療法と結合した手技療法が興つて、叩打術的手技療術を新しい方向に導きました。 田中氏の霊子術、森田氏の調精術、松本氏の人体ラジウム療法等はこの傾向の療術の代表であります。
そのプラーナ療法的傾向は生氣自強療法や手のひら療治を後に産みましたが、手技療術としては中井氏の自彊術、小山氏の血液循環療法の特異性を見ねばなりません。之らは新しい観点のものに行はれた技術でありまして、斎藤氏の生理的療法、高橋氏の正體術なども、この独特の立場をたもつている優秀な技術であります ”
後に霊術、手かざしなどと呼ばれる系統が、意外にもヨーロッパの生物磁気説やインドのプラーナ学説などに端を発しているというのはちょっとした驚きである。
“ 之らのいろいろの手技療術がいろいろの基礎によつて行はれてその勢が旺んになりかけた大正五年に、河口三郎氏がカロープラクテイツクを紹介し、同六年に兒玉林平氏によりてスポンデラテラピー、同七年柴崎吉五郎、山田信一氏によつてオステオパシーが輸入され、之を機に日本における手技療術は大変動し、その形をすつかり変へてしまひました ”
慰安の術に堕していた按摩術を再生させようという試みから出発した治療術も、武術の活法を下敷きにした手技にその地位を取って替わられ、更にそれもまたアメリカから輸入された脊椎調整の技術に席巻された様子が記されている。
しかし整体操法は、それら理論重視の脊椎組の優秀な技術を吸収しながらも、その分析・分解による生命認識によらず、総合的・全体的生命認識に立脚してその体系を構築していくこととなる。
” 私は手技療術はその論に目を奪はれて事実が見えなくなつたのでは無いかと大に心配しましたが、幸ひいにも堅実な人々は理論に依らぬ手技療術を少数ながらその技術によつて守っていてくれました。高橋氏の正体術を始めとし、野中操法、柴田操法、宮廻操法、永松操法などがそれであります ”
” 解剖学的知識による機械学的推論から一歩もふみ出し得ない治療上の基礎理論は要するに理論でありまして、吾々はいまだ事実の上に真理を見ねばなりません。手技療術が理論以前に存在していた事実は、手技療術のうちに理論以上の生命に対する理論の存在していることを悟り、その事実にむかつて理論を求む可きでありまして、理論から出発して生命を牛耳る程、理論は力あるものではありません ”
そして野口氏は、日本における手技療術の沿革の項を次のように結ぶ。
” 整体操法を制定するに当たり、手技療法の沿革をしらべますと、真に優秀な技術や又正当な見処に立つ技術が必ずしも多くの支持を受けていたとは申せませんでした。しかし世の風潮は百年か百五十年経れば変わるものであります。いつか本当のことを見る時が来るものと思ひますが、それ迄認められなかつた優秀な技術を残しておき度い、そうした考へが整体操法に特殊操法を設けた理由でありますが、すでにこの世を去つた人々の技術を探す術も無く、その面影でその技術を求むることは容易なことでは無く、まことに残念であります。優秀な技術、立派な見処をもち乍ら、この世で認められずに去つた幾多の人の心を想ふ時、吾々は感慨深きものがあります ”
続いて話は、いよいよ整体操法の制定に入っていく。