野口整体 白山治療院
東京都文京区向丘2-37-3石橋ビル5階

整体操法の成立概略

 

整体操法の成立

整体操法は、社団法人整体協会初代会長であった、故 野口晴哉氏によって創始された 「整体法=野口整体」 における 「他律的心身調整の技術」 です。整体操法の理論と技術体系は、創始者 野口晴哉氏の卓越した人間観 ・生命観に貫かれて、他に類を見ない独創的なものとなっています。
 
そもそも整体操法は、昭和の初期に野口晴哉氏を中心として東京治療師会の手技療術の標準型として制定されたのがその始まりです。
 
整体操法が確立した前後、大正から昭和初期というのは、手技療術が大いに発展した時代だったようです。古来の日本的、東洋的な手技療術 ・民間療法に加えて、アメリカから入ってきたカイロプラティックやオステオパシーなどの影響をうけ、さまざまな手技療法が発展し花開いていました。玉石混淆ではあったでしょうが、まさに 「療術百花繚乱」 と言っていい時代でありました。
 
手技療法全盛のその当時、一流一派を率いる名人 ・大家と呼ばれる人々が、それぞれの経験に基づく見識と理論と技術を持ち寄って、療術界の発展のために新しい技術体系を創り出そうという動きがありました。その動きの中心にいたのが野口晴哉氏でした。
 
ちなみに、その第一回制定委員会の委員の顔ぶれは以下の通りです。
 
「野口晴哉(精神療法)を委員長として、次の十三名の委員によって構成されていました。梶間良太郎(脊髄反射療法)、山田信一(オステオパシー)、松本茂(カイロープラクティック)、佐々木光堂(スポンデラテラピー)、松野恵造(血液循環療法)、林芳樹(健体術)、伊藤緑光(カイロープラクティック)、宮廻清二(指圧末梢療法)、柴田和通(手足根本療法)、山上恵也(カイロープラクティック)、小川平五郎(オステオパシー)、野中豪作(アソカ療法)、山下祐利(紅療法)、その他に美濟津貴也(圧迫療法)他三、四名の臨時委員が加わりました」
(整体操法読本 巻一)
 
東京治療師会内の整体操法制定委員会において手技療術の標準型として制定された整体操法は、その後大日本療術師会においても承認・採用され、全国的な手技療術の標準型となるはずでしたが、第二次大戦のため実現に至らなかったということです。
 
戦後まもなく、野口氏は 「整体操法協会」 を設立し、整体操法の指導者育成に取り組みます。整体操法制定委員会の主要委員の多くは、この整体操法協会の活動に引き続き参加していたようです。
 
それからおよそ十年の後、野口氏は治療ということに対する考え方の相違からそれまで行動を共にしてきた多くの治療家達と袂を分つことになります。
“ 病気を治すことよりも人間本来の力を引き出して健康に導く自らの活動を 「体育」 と位置づけ、「治療」 を捨てることを決意 ” (野口晴哉公式サイトより)し、「社団法人 整体協会」 を設立するに至るのです。
 
その後整体操法は、整体協会内で受け継がれて今日に至ります。
 
また、野口氏の生前・没後に整体協会を離れて独自に活動している方々も少なからずおり、そこでも整体操法の継承は続いています。
 
更に、戦後野口氏は山口県において復員兵の職業訓練として整体操法の指導をおこなっていたので、この系統の整体操法も現在まで続いているようです。
野口整体の分派ともいえる井本整体は、その始まりからいえばこの系統ということになるでしょう。
 
 

治療術としての整体操法

整体操法は、治療術として成立し発展してきました。しかし、昭和20年代の終わり頃に、創始者の野口晴哉氏が 「治療」 を捨て、整体を 「体育」 と位置づけると宣言し、大きく方向転換しました。
 
それ以後、野口氏の主催する整体協会では、「整体」 は 「体育」 となり、「整体操法」 は 「指導」 となりましたが、野口氏より整体を学んだ人々の中には、氏の生前、または没後に整体協会を離れ、整体操法を更に治療術として高めようとした方々もいました。私が師事した先生も、そうした人々の中の一人です。
 
白山治療院では、野口整体の 「体育」 としての思想も重視していますが、同時に治療術としての整体操法の更なる進化・深化を目指して、治療技術の研鑽を続けています。
また往時とは、大きく時代や生活、人々の体が変わったこともあり、新しい時代に即した整体操法のあり方を日々研究しています。
 
 
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